スタッフブログ!つむぎ内・外よもやま話

感覚をゼロに

2014年03月13日  文責:川口

こころが落ち着かなくなると,(余裕があれば)
禅寺で1週間ほど過ごしたときのことを思い出したりします。

大学時代に恩師が,
「昔,講演をしにいった山寺では,
未だに電気もガスも通っていないんだよ」
と語ってくれていたことを思い出したのは,10年ほど前。
悩みとまではいかないまでも
当時,いろいろと考えることがあったのと,
単純に,お坊さんの日常を体感してみたいという興味もあり,
ゴールデンウィークの休暇をお寺で過ごすことにしました。

飛行機,電車,バスと乗り継いで,ふもとの村まで到着。
そこから木々が鬱蒼と生い茂る山道をひたすら登り
辿りついた山寺は,まさに「別世界」でした。

禅宗のお寺なので,朝は(というか夜?)3時半頃に起きだし
夜,10時頃床につくまでの間,坐禅や作務(掃除や畑の草引き),
読経など,あらゆる修行を皆で決められた時間通りに行います。
禅では,すべてが修行である,との考えから
例えば食事の時の箸の向きであるとか,歩き方など
あらゆる所作に関しても細かな作法があります。

最初の数日は,下界とのギャップが激しすぎて
ついていくので精一杯でしたが,徐々に慣れてくると
物がない世界,外界と遮断された世界で
坐禅を組んだり,黙々と雑巾がけをすることが
心地良く感じられて,なんとも不思議でした。

寝食を共にすることで
そこで修行されている雲水さん(禅でのお坊さんのことをいいます)
の存在そのものへの興味も大きくなりました。
特別にお話をさせていただいたのですが,
禅への興味から,会社を辞めて仏門に入ったという方がおられたり,
修行僧の半数が外国人僧侶の方で,
仏教用語より派生した言葉の意味を
彼らから教わるということもよくありました。

なかでも最も興味深かったのは,
一同に厳しい修行に励んでいるにもかかわらず
それぞれ向かうところがまったく定かでない点です。
俗な言葉でいうと,目標や目的がない(見えない)点です。
「そこで修行された後」の予定を訊いても
誰もが,わからない,と仰います。
確かなのは,いまここにいる,ことだけです。
俗世まみれの自分からすると,
真に自由で,とても神々しく感じました。

わずか一週間でしたが,当然のことながら「別世界」では
経済活動がまったくなかったため,
帰りにふもとの村からバスに乗った時
「お金」を払うのにとてもまごついてしまったのも新鮮でした。

あの体験とまではいかなくとも,
今までの感覚をリセットするような機会は
あった方がいいなと思います。