社長ブログ、笑いと涙の奮闘記

ごんぎつね

2022年08月31日

そのときの授業は,『ごんぎつね』の話の中で兵十の母親の葬儀のときに,村人たちが集まり,村の女たちが大きな鍋で料理をしている場面についてでした。

作中の描写では,「よそいきの着物を着て,腰に手ぬぐいを下げたりした女たちが,表のかまどで火を焚いています。大きな鍋の中では,何かぐずぐず煮えていました。」となっています。ごんにとっては人間の料理の内容などわかりませんから,その料理は「何か」と捉えたのです。

ごんぎつね

2022年08月30日

その後ごんは罪滅ぼしのために,毎日のように兵十の家に行き,内緒で栗や松茸を届けます。

そして,その物語の最後は,早とちりした兵十が,ごんを火縄銃で撃ち殺してしまうという結末を迎えます。

さて,ここからが本題です。これからご紹介するあるシーンは,国内外の貧困,災害,事件などをテーマに,取材,執筆活動を行っている作家の石井光太氏が体験したものです。氏は都内のある公立小学校に講演を頼まれました。氏はその講演後,小学4年生の国語の授業見学を願い出ました。

ごんぎつね

2022年08月29日

皆さんは作家の新美南吉が18歳のときに書いた『ごんぎつね』という物語をご存知のことでしょう。この物語は半世紀以上にもわたって,国語の教材として教科書に載っています。

「ごん」は,悪ふざけばかりしているきつねです。ある日,ごんは兵十という男が捕ったうなぎや魚をわざと逃がしてしまうといういたずらをしました。その日から十日ほど経った日,ごんは兵十の家で母親の葬儀が行われているのを見かけます。そのときごんは,「兵十が魚を捕っていたのは,病気の母親に食べさせるためだった」と知り,自分のした行いを反省します。

秀吉の中国大返し

2022年08月26日

このような状況に思いを巡らせると,この中国大返しがいかに大変な移動であったかが想像できます。また,これだけの決断と行動を即座に実行できるには,前々からの入念な準備や手配が必要だったと考えられます。つまり,秀吉は日頃から予想可能な様々な局面を想定して,「このようなことになったら,このような手を打つ」ということを考え抜いていたことでしょう。秀吉は,本能寺の変の1か月前から高松城を水攻めにしていました。その状況からして,秀吉には様々なケースを想定して,打つ手を考える時間的余裕があったとも考えられます。私は以上のような情報を『日本史サイエンス』播田安弘著〈講談社BLUE BACKS〉から知りました。今までの私は,歴史上の出来事を「ああ,そうなんだ。そんなこともあったのだ」と表面的に納得していましたが,この本を読んで,歴史についてもっと深く考え,科学的な面からも捉えていく必要性を痛感しました。

秀吉の中国大返し

2022年08月25日

また,ここで大切なことは,兵士たちの食料についてです。この行軍を支える兵士の一人あたりの1日の食料は,おにぎり20個分です。全軍は2万人ですから,1日で40万個分(約40t)のおにぎりが必要です。各所で玄米を調達するにしても,それは大変な量です。また,武具や食料を運ぶ馬は約7千頭も用意されました。馬に食べさせるための飼料を運ぶ馬も合わせると,そんな多くの数となります。これだけの大軍や馬が移動するときに落とす糞尿の量も半端ではありません。その処理も大変で,その環境も不衛生です。このような過酷な環境の中,病気や疲労で脱落した兵士も多かったことでしょう。

秀吉の中国大返し

2022年08月24日

では次に,信長が倒れたことが紛れもない事実だとわかり,京都まで戻ると決断したところあたりの状況について検証してみましょう。6月5日の午後から13日の朝までは,実質8日間で全行程は約220kmです。単純に計算しても,兵士は1日につき約30km弱を8日間にわたり歩かねばなりません。当時は梅雨の真っ最中で,8日間のうち5日間は雨でした。しかも京都に着いたら,光秀と戦わなければなりません。4日目には船坂峠という難所も越えねばなりません。兵士たちは当然のこととして,約30kgもある武具を身につけての行軍です。さらに,夜の睡眠は雨が降り,ヤブ蚊がぶんぶん飛んでいるようなところでの野宿がほとんど。このような行軍に耐えられる人は今の日本人の中でどれだけおられるでしょうか。

秀吉の中国大返し

2022年08月23日

これら一連の行動を知り,「ああ,そうなんだ。すごそうだね」と感じる人もおられるかも知れません。一方で,「本当にそんなことができたのか。奇跡的なことだ」と,半分「信じらない」と思う方もおられることでしょう。このような行動を決断し,実行するには,次のような前提が必至です。まずは「情報の真偽を確かめる」という前提です。一説によれば,6月3日の夜に秀吉軍に怪しい者が紛れ込み,その者を捕らえたところ,光秀から毛利方への密使で,本能寺で信長らを殺したことを伝える手紙を携えていたとのことです。だまし合いが当たり前の戦国の世の中で,秀吉はこの情報一つで毛利氏との講和を決め,即座に2万もの大軍を動かす決断を下すでしょうか。もし,これが策略による誤報であり,信長が何事もなく生きていたとすれば,逆に秀吉の立場はどうなっていたことでしょう。多分秀吉は,各地からの情報が頻繁に届くようなシステムを作り上げていて,複数の情報が合致して初めて動いたことでしょう。

秀吉の中国大返し

2022年08月22日

1582年6月2日の早朝,明智光秀は主君の織田信長を本能寺にて討ちました。信長はその日,秀吉が攻める備中高松城(現在の岡山県岡山市北区)に向けて,出発する予定でした。一説によれば,秀吉がこの悲報を知ったのは6月3日の夜で,秀吉は悲嘆に暮れつつも主君の仇を討つことを決意し,毛利方と講和を結び,6月5日の午後,2万人の大軍を率いて京都に進発したとのことです。そこから秀吉は備中高松から,京都の山崎(京都府乙訓郡)まで約220kmの行程を,8日間で踏破し,6月13日,山崎の戦いで明智軍に大勝して天下取りの道を走り始めました。

バングラデシュ人の物語

2022年08月19日

これらの話は『パンツを脱いだあの日から−日本という国で生きる』〈ごま書房新社〉に詳しく書かれています。私はある記事からこの本を知り,バングラデシュという国と本の題名に興味を抱いて,一気に読破しました。この本を読むと,バングラデシュという国の厳しい現状,イスラム教という宗教,そして外国人が日本で生きる困難さなどをリアルに知ることができます。そして,つくづく日本という国の良さ,日本人として生まれたことの幸福を感じることができます。

なお,「パンツを脱いだあの日」とはどんな日のことでしょう。それは読んでみてのお楽しみです。それは決して不道徳な意味ではありません。念のため…。

バングラデシュ人の物語

2022年08月18日

氏は,既に日本で働いていた兄さんを頼って,日本の大学に留学する決意をしました。そのためのビザを発行してもらうのも大変な苦労です。また,日本への入国に際しては,日本人の保証人が必要で,大学に進学するための試験に合格できなければビザの延長はなく,残された道は強制送還か日本での不法滞在です。そのようなギリギリのとき,氏を助け,身元保証人になってくれる人が現れます。その後,多額な入学金の支払いやアルバイト先での苦しい試練を乗り越え,氏は日本での生活を続けます。

バングラデシュ人の物語

2022年08月17日

バングラデシュの人たちは氏が生まれた当時,ほとんどが1月1日生まれでした。氏自身も1月1日生まれで,本当の誕生日を知りません。国に戸籍を管理する仕組みがなかったのです。人間の子どもの誕生は,家で飼っているウシやヤギ,ニワトリの誕生と同じでした。バングラデシュでは,5才ぐらいになると「宗教学校モクトヴ」に通います。朝6時から8時まで,3年間でアラビア語やお祈りの作法やコーランを学びます。お祈りは1日5回,先生たちは「世界の中でイスラム教が唯一正しく,他の宗教はすべておかしい」と思っているような節があり,それが他の宗教の人たちとのいがみ合いの種となっているようです。バングラデシュのほとんどの女性は,13才から14才で結婚させられます。もちろん男女とも恋愛は禁止で,それを破ると男性も女性も厳しく罰せられます。

バングラデシュ人の物語

2022年08月08日

氏が生まれたとき,父は戦場に駆り出され,母は一人で5人の子どもを守っていました。母が氏に乳をあげようと思っても,何も食べていない母からはまったく乳が出ません。そこで周りの人たちにお願いして何とかお米を恵んでもらい,そのお米を粉にして,お湯に溶いて飲ませるような状態でした。当時バングラデシュには子どもの人身売買が横行しており,氏もあわやお米3圓噺魎垢貿笋蟒个気譴訐A阿任靴拭つまり,氏の命はお米3圓汎韻犬箸いΔ海箸砲覆蠅泙后バングラデシュはかつて東パキスタンと呼ばれ,イスラム教の国です。イスラムとはアラビア語で「神の教えを拠りどころにする」という意味で,人々は唯一の神「アッラー」を信仰しています。そして,アッラーの言葉が書かれた経典が「コーラン」です。

バングラデシュ人の物語

2022年08月05日

皆さんはバングラデシュという国をご存知のことと思います。首都はダッカ,バングラデシュはとても貧しい国です。バングラデシュの人々は,第二次世界大戦の敗戦でどん底に落ちたはずなのに,わずかな期間で世界を代表する国に発展した,日本と日本人に憧れを抱いています。さて,これからは,1972年,バングラデシュ独立戦争中に生まれた,マホムッド ジャケルさんのお話です。

風鈴の音色

2022年08月04日

虫の声にしても,風鈴の音色にしても,日本人は繊細な耳でそれらの音色を楽しむことができるのですね。最近の日本は,何かと人の心が殺伐としがちな世の中になりつつありますが,このような日本人ならではの感性を大切にして,潤いのある生活を送っていきたいものです。

風鈴の音色

2022年08月03日

また,私の家では鈴虫を飼っていて,キュウリなどのエサをやり,その虫の声を毎日楽しんでいました。以前,「日本人には虫の声を聴き分け,その音色を楽しむ感性があるが,外国人にはその音は雑音としか聞き取ることができない」という話を聞いたことがあります

風鈴の音色

2022年08月02日

これを僧侶が日本に持ち帰って,青銅製の「風鐸」が魔除けとして寺院のお堂や塔の軒先に吊るされるようになりました。江戸時代になると,それが庶民の間に広がり,ガラス製の江戸風鈴,金属製の南部風鈴,陶器製の伊万里風鈴などが作られるようになりました。

風鈴の音色

2022年08月01日

その家の軒先には風鈴が吊り下げられ,風が吹くと「チリリリーン」と鳴るその音色に涼しさを感じたものです。風鈴の起源は約2千年前の中国で,風の向きや音の鳴り方によって吉凶を占った「占風鐸(せんぷうたく)」であるといわれています。